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| 『“夏まつり”は一体いつ、どんな理由から始まったん?』之巻 時を遡る事、西暦862年(貞観4年)のとある日のこと―。 この地域を荘園として有していた坂上当道(征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫)は氏神として京都祇園八坂神社より“素盞嗚尊”(スサノオ)を勧請し社殿を創建、これが杭全神社の始まりとされています。 そして主祭神となる“素盞嗚尊”とは罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しき諸々を荒々しい強い力で祓い清める災厄除けの神様。 “スサ”には「荒・清浄」の意味があり、別名「牛頭天王」(ごずてんのう)とも呼ばれています。 牛頭天王は元々インドの祇園精舎の鐘の守護神であり(八坂神社を祇園社と呼ぶ所以がここにあった!)、非常に粗暴で荒々しい神であった事から日本へ入ると素戔嗚尊と同一視されていきます。 この習合の過程の中で、牛頭天王は祓う対象としての疫神と考えられるようになりました。 以来、日本古来の神様の「素盞嗚尊」とインドは仏教の守護神「牛頭天王」はウルトラマン・エースよろしく二位一体のスーパー神様「素盞嗚尊(牛頭天王)」として日本中を席捲(祇園信仰)する事になるのです! 従って、祇園祭がそうであるように“流行る疫病を鎮め、健康祈願の為に夏祭りが始められた”と考えられます。 因みに昔は祇園祭と同じ日程で行われており、現在の日程へは明治初年に旧暦から新暦へと変更された際に1ヶ月遅らせて設定されたのだそうです。 しかし、祭りの記録として最古のものは1705年(宝永2年)のものであり、それ以前の詳しい事はわかっていません・・・。 |
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| 『だんじりのルーツって一体・・・?』之巻 現在ある“だんじり”の形態になったのは幕末から明治期にかけてと言われています。 “だんじり”という言葉が歴史の表舞台に初めて登場した時期は残念ながら現時点ではわかっていません・・・。 が、しかしっ!かつて江戸時代中期〜末期(1700年代)にかけて平野郷で行われた祭礼の記録(写し)が某所に残っていたっ! 最古の記録となる1745年(延享2年)に記された祭礼控の「牛頭天皇(天王)祭礼ねり物覚」の中に“段尻”という記述があるのだとか。 ここでは「段尻 二(馬場一 野堂一)」とだけあり、三十数名が携わっている旨の記述から相当大きなものだったと推測されています。 (「家台(屋台)」が十数台あるという記述もあるらしい・・・) と言う事は今の形態ではないかもしれませんが“だんじり”は1745年より以前に登場していたのではなかろうか?というコナンばりの名(迷)推理もはたらいちゃったりして・・・。 いやぁ〜歴史ってホンマ浪漫やねぇ〜(笑) この夏祭りの風習は一説では外国(東南アジア)から入ってきたものではないかと言われています。 現地における各地域のお祭でも山車(だし)やだんじりによく似た“出しもの”が使われており、「日本のだんじり祭のルーツは東南アジアにアリ!?」と言っても過言ではありません。 そして“だんじり”という言葉も外来語であるという説もあり、まぁ、牛頭天王がインドの守護神である事から考えてもあながち間違いじゃないのかも!? さて現在、9町に分かれている平野本郷ではありますが、かつては「平野本郷七町」と呼ばれ、町名は野堂・泥堂・西脇・流・市・背戸口・馬場の7町でありました。 これは※「平野(坂上)七名家」各氏が治めた地域を基に分けられております。 後に一番大きい地域だった野堂が田端組、出屋敷組、魚棚組、樋屋組に分かれ、最終的に現在の「野堂東」「野堂南」「野堂北」となったのだそうです。 ※平野の開発領主である坂上廣野麿(上記、田村麿の次男坊)の子孫達。 野堂氏(後の末吉氏)・泥堂氏(後の井上氏)・森氏(後の成安氏)・市氏(後の土橋氏)・三上氏・辻葩(つじはな)氏・西村氏の七名家である。 因みに坂上廣野麿は坂上家きっての武人であったと伝えられている。 |
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| 『夏まつりのスケジュールはどうなってんの?』之巻 7月1日 上記に11日〜14日の4日間、行われる・・・とありますが、忘れちゃならねぇーのがこの日に行われる「夏祭(無事)遂行祈願祭」です。 これは古いしきたりで“祭りに入る前の準備の行事”として安全祈願が神社にて執り行われ、神社前と平野川の※樋尻口には清めの為の斎竹(いみだけ)が立てられます。 ※かつて平野郷には13の木戸口があり、樋尻口はその一つ。 現在「平野郷樋之尻口門跡」として平野公園内に石碑が建っている。 7月11日 「神輿川行神事(みこしかわゆきしんじ)」(足洗い)として早朝からその年の宮入一番町が布団太鼓を担ぎ、大きな音を出してお神輿の道を清めます。 午後にはその年の宮入二番町が飾り付けをしていない“裸神輿”を平野川の樋尻口まで巡行、足洗い(お清めのこと)を行い、神社へお戻りになられたお神輿は飾られ、夜、暗闇の中で※「神遷(かみうつし)」が執り行われます。 ※氏神(素盞嗚尊)さまがお神輿へ移られること。 7月12日 日中、「花貰い」として子供達が各町のだんじりを曳いて「花」(祝儀)を貰いに町中を廻り、午後9時半頃、“九町合同曳行”として南港通りに各町のだんじりが勢揃い! 9町のだんじりによる競演が繰り広げられます!! 7月13日 日中、各町では町内を曳行し「花貰い」を行い、いよいよお待ちかね!午後6時半頃より“夏まつり”のクライマックスである「宵宮祭」“地車(だんじり)宮入”が行われます。 因みに「だんじりの宮入」は厳密に言っちゃえば杭全神社の祭りではないんだよねぇ〜。 “だんじり”はあくまでも町衆の祭りであって神事ではなく“神前で町衆が賑やかに振る舞う事により神様に喜んでもらう”という「神賑わい行事」と言われているんです。(知ってた?) さて、宮入は毎年輪番制で今年の宮入一番町は「西脇組」、以下「背戸口町・市町・流町・野堂北組・野堂町南組・野堂東組・馬場町・泥堂町」の順番となっております。 しかし、素直に宮入しないのが平野のだんじり祭(笑)「戻せぇー戻せぇー」と進んでは戻り・・・を繰り返す。 一旦宮入するともう後戻りする事は禁止なので、焦らしに焦らしちゃうワケ。 そして平野のだんじり祭で一番特徴的とも言えるのが「舞い舞い」(舞え舞え)であります。 だんじりの車輪の1つを軸にしてだんじりを傾け、グルグルと一定方向に廻すという荒技。 これは「神に向かって頭を下げて拝んでいる」という意味なのだそうです。 そんなこんなで9町全てのだんじりが宮入を終えるのは翌14日未明になってから。 明日の本祭りを控えていながらもこれで祭が終わったように感じてしまう方々も結構いらっしゃるとか・・・。(嗚呼、燃え尽き症候群?) 7月14日 最終日のこの日は本祭となる“お渡り”として「神輿渡御」(みこしとぎょ)&「神幸祭」(しんこうさい)が行われます。 これは普段は杜の奥に鎮まる氏神様が神輿に遷られて町の中をお渡りになる事であります。 まず、午後3時頃に杭全神社を出発した一行は平野公園に隣接する三十歩神社へと向かいます。 午後4時頃、三十歩神社をスタート地点として町中を練り歩き、途中で全興寺、長宝寺(坂上氏の菩提寺)へと立ち寄り、神事を行います。 夜となり、杭全神社へと帰還。 先頭の布団太鼓が宮入してから神輿は坂上家の家紋「向う馬」の提灯に送られ宮入、拝殿を目指します。 拝殿の後ろへ安置された後、深夜に再度「神遷(かみうつし)」が執り行われ、神様を神輿から神社へお移ししてフィニッシュ! 祭礼の全てがこれにて終わりを迎えるのであります。あー長かった・・・(笑) さて因みにこの一行は大凡、7つのパートに分けられており、先頭から以下の順で列をなしています。 @布団太鼓 太鼓台巡行当番町が行列の先頭として担ぎ「神輿渡御」を知らせ、と同時にお祓いとして道を清める役を担う。 A天狗or猿田彦(さるたひこ) 先導役を務める。 B氏子総代 C物持ち 神具を担ぐ人のこと。 D神職・巫女 E伶人 音楽を奏でる人のこと。 F神輿 |
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